皆さんこんにちは、TeamWADA学生メンバー代表のアンダーソンアレックス誠治と申します。今回は、病理科の魅力と卒後10年目以降からの渡米について、原先生にお話を伺いました!

原 奈央 先生

—ご経歴—

-1999: 旭川医科大学卒業
1999-2001: 北海道大学附属病院 内科研修
2001-2009: 北海道大学 呼吸器内科 (旧 第一内科)
2003-2007: 北海道大学 大学院
2009-2012: University of North Carolina at Chapel Hill 博士研究員

2015: USMLE Step 1合格

2017: USMLE Step 2 CK合格

2018: USMLE Step 2 CS合格
2019: Brigham and Women’s Hospital Clinical Observer
2020: Focus Pathology Medical Laboratory PLLC Observer, USMLE Step 3合格
2021-2025: Westchester Medical Center 病理レジデント
2025- University of Michigan 呼吸器病理フェロー

 

—インタビュー本編—

アンダーソン:まず、研究留学で渡米されたのですね。

 

原先生:
私は医師10年目くらいで研究留学をしました。少し遅い方だと思います。当時は、ある程度実績を積まないと留学は難しいと感じていたので、研究をして論文をいくつか書いた上で渡米しました。研究に専念できる環境に身を置きたかったんです。最初は2〜3年で帰国するつもりでした。ところが、その途中で人生に大きな変化がありました。実は単身でアメリカに来たのですが、その後日本人の夫と結婚することになって。夫は医師ではなく研究者ですが、「アメリカで研究を続けていきたい」という強い希望を持っていたので、私も日本に戻らないと決めたのが13年目の頃です。その間、私は3年間臨床を離れ研究に専念していました。子どもが生まれたり、研究室の契約が切れたりと、家庭の状況も変わっていきました。最初の留学先はノースカロライナ大学で、夫は当時デューク大学に所属していました。その後、夫の仕事の都合でボストンに移り住みました。そこで改めて、「研究を続けるのか、それとも臨床に戻るのか」と考えるようになりました。やはり臨床もやりたい気持ちが強く、こちらで臨床を続けるにはUSMLEを取らなければならない、と決心したんです。

 

アンダーソン:その後、どのようにUSMLE取得やマッチングをされたのですか。


原先生:
13年目になった頃から、「どうしたらいいのかな」と思い始め、情報を集めました。知り合いを探したり、知り合いの知り合いに紹介してもらったり、ネットで調べたりしながら、まずはUSMLEの勉強を始めました。ステップ1からの勉強は、正直とても大変でした。

ちょうどその時期に出産も重なり、娘が2歳くらいになるまでは本格的に取り組めませんでした。2012年に娘が生まれ、2015年にようやくステップ1に合格しました。そこからとてもゆっくりですが進めて、2016〜17年にステップ2 CSとCK、そして2018〜19年ごろにステップ3を通過しました。合計でおよそ6〜7年かけて全てを終えた形になります。

そして2020年に初めてマッチングに挑戦しました。最初は内科で出願しましたが、結果は惨敗でした。インタビューも知り合い経由で一つ来た程度で、ほとんどチャンスを得られなかったんです。どうしようかと悩んでいたときに、ふと、自分がアメリカに来る前に取り組んでいた研究テーマ──例えば間質性肺炎など呼吸器領域の研究──を思い出し、方向転換を考えるようになりました。

 

アンダーソン:そこから、病理医としての人生が始まったということですね。

 

原先生:
実際、日本人医師でもアメリカで病理に転向した方が何人かいたので、「これは自分にも合うかもしれない」と思ったんです。病理は全く未知の分野というわけではありませんでしたし、挑戦してみようと考えました。そこで、二回目のマッチングでは病理に応募しました。ただ、臨床としての病理のバックグラウンドがなかったので、何とか興味を示す必要があると考えました。当時はコロナ禍だったため対面でのオブザーバーシップは難しかったのですが、オンラインでのバーチャルオブザーバーを受けました。例えば、午前中は技師さんが顕微鏡操作をカメラ越しに見せてくれたり、午後はZoomで病理標本を一緒に見ながら学んだりといった形です。数か月間続けて、その経験を履歴書に書くことができました。そして2021年、ニューヨークにあるWestchester Medical Centerの病理レジデンシーに採用され、4年間の研修を開始しました。その後、病理専門医試験に合格し、現在は呼吸器病理のフェローシップを1年間行っています。呼吸器領域に強い関心があったため、最初から呼吸器病理を目指してレジデンシーを選んだ形になります。

 

アンダーソン:アメリカの病理について、詳しく教えてください。

 

原先生:
アメリカの病理は非常に範囲が広いんです。大きく分けると AP(Anatomic Pathology, 解剖病理) と CP(Clinical Pathology, 臨床病理) の二つがあります。日本で「病理」と言えば、多くの場合AP、つまり手術で摘出された標本や生検組織を顕微鏡で診断する分野を指すと思います。一方でアメリカでは、CPも病理に含まれます。CPには微生物学、輸血学、臨床検査、生化学、分子診断学などが含まれていて、要は検査・診断全般を病理医が担う仕組みなんです。日本ではあまりイメージしにくいかもしれませんが、診断に関わるものはすべて病理が担当する、という印象です。レジデンシーの仕組みとしては、APとCPを両方学ぶプログラム(4年)が一般的ですが、APのみ、CPのみ(各3年)という選択肢もあります。ただし、CPの研修をきちんと受けていないと、将来検査室のディレクターなどの役職には就けないため、キャリアの幅を広げる意味でもAP+CPを選ぶ人が多いです。また、アメリカでは血液学的な診断も病理が行います。例えば骨髄検査の標本を読んで診断するのも病理医の役割です。日本では血液内科の先生が診断していた印象がありますが、こちらでは病理の領域に含まれます。こうした背景から、アメリカの病理は本当に幅広く、頭の先から足の先まであらゆる臓器の標本が届きますし、胸水や腹水といった体液検査も含まれます。とてもバラエティに富んでいて、毎日いろんな症例に触れられるので、4年間のレジデンシーは本当にあっという間でした。

 

アンダーソン:病理医の働き方について教えてください。

原先生:アメリカに限って言えば、病理のレジデントは他科と比べて当直の回数や夜中に呼ばれる頻度がかなり少ないと思います。その分、自分の時間を比較的取りやすく、1日のスケジュールを自分で立てやすいのが特徴です。例えば、「午前中はこの標本を確認して、この時間に上級医とディスカッションして、午後は本を読む」といった具合に、自分の計画通りに進められることが多いです。臨床科のように、突然いろんな依頼や緊急対応が飛び込んでくることは少ないですね。ただし、例外もあります。手術中の迅速診断(frozen section)のように、検体が来たら時間に関係なくすぐに対応しなければならない業務もあります。それでも全体としては、他科と比べてオンコールの負担は軽いと言えるでしょう。

 

一方で、病理はどうしても「地味」で目立たない部分もあります。患者さんと直接会う機会は少なく、基本的には検体を通じて診療に関わる形です。ただし、臨床検査部門によっては患者さんと接点を持つ場面もあります。例えば、血漿交換などに関する検査やトラブルシューティングを病理医が担当する場合です。病院によって、病理医が積極的に関わるか、それとも血液内科が中心になるかは異なります。私自身がいたプログラムでは、病理が患者と直接関わる機会はあまり多くはありませんでした。基本的には患者さんの検体を通じて診療に貢献する、そういう働き方でしたね。

アンダーソン:州によって、レジデントやフェローの競争率は変わってくるのでしょうか。

原先生:
はい。私は最初、ニューヨークの病理レジデンシーに入りました。病理のプログラム自体、内科などに比べると数は少ないんです。例えばボストン市内なら、マサチューセッツ総合病院(MGH)、ブリガム&ウィメンズ、ボストン・ユニバーシティ、タフツ、マサチューセッツ大学、ベスイスラエル病院くらいで、全部で6つほどしかありません。そのため、ボストンで研修したい人にとっては非常に狭き門になります。特にMGHやブリガムは世界中から応募者が集まるのでとても競争率が高く、当時は「USMLE Step 1で260点以上ないと外国人は採用しません」と明記されていたほどです。私も一応出願しましたが、とても入れる気はしませんでした。その点、ニューヨークにあるプログラムは、比較的USMLEの点数が低かったり、卒後年数が経っていてもレジデントを受け入れているプログラムも多く、オープンな雰囲気がありました。実際、私自身は家族と一緒にニューヨークへ移りました。夫の仕事はボストンにあったのですが、ちょうどコロナ禍で在宅勤務が続いていたので、最初の2年間は一緒にニューヨークで生活できました。ところが後半の2年間は出社が必要になり、交渉の結果「週3日だけ出社」という形になったんです。そこで夫は週の前半はボストン、後半はニューヨークという生活を続けることになりました。今も週末にはボストンから飛行機で戻ってきて、家族で過ごすというスタイルです。そのため、私は平日は基本的に娘と二人で暮らし、週末に夫が合流するという生活を送っています。ただ来年からは、ようやく家族全員でボストンに戻れる予定です。家族の協力なくしては築けないキャリアであり、夫と娘にはとても感謝しています。

 

アンダーソン:日本で呼吸器内科医として確固たる地位を築いた後に、アメリカでもう一度研修医として始める。とてもエネルギーが要ることだと思いますが、その原動力はどこから湧き上がってくるのでしょうか。

原先生:それしか選択肢がなかったから、というのが正直な答えです。子育てに入ってから、「この先どうするか」と改めて考えました。もちろん、かつて興味があったインテリアデザインのような全く別の仕事に挑戦する道も頭をよぎりました。でも、すでに10年以上医療の世界に身を置いてきたことを思うと、やはり医療の分野で続けたい気持ちが強かったんです。どうせ続けるなら、自分が本当にやりたいことに挑戦して、後悔のないようにしたいと思いました。だから「できる限りやってみて、それでダメなら諦めよう」と腹をくくって進んできました。当時は特別なことをしている感覚はありませんでしたが、振り返ると、あの時「やらないで後悔するより、挑戦して納得したい」という思いが原動力になっていたのだと思います。

 

アンダーソン:ボストンで、病理レジデントとしてマッチするためにはどうしたらいいでしょうか。

原先生:正直なところ、ボストンでレジデンシーにマッチできるのは、若い段階の人がほとんどだと思います。PGY10を過ぎてからボストンで受け入れられるケースはあまり多くないでしょう。もちろん、もしそういう道があれば素晴らしいことだと思いますが、基本的には「まだ経験の少ない人を採用し、プログラム側で一から育てたい」という方針が強いのではないでしょうか。

ある程度キャリアを積んでから挑戦する場合には、やはり実績を示すことが重要になります。具体的には、研究歴や論文数、どの施設で働いてきたかといった経歴です。そして何より、USMLEのスコアは非常に大きな意味を持ちます。今ではStep 1はパス/フェイルですが、Step 2 CKは点数制で、平均が250点前後ですから、IMG(外国の医学部を卒業した医師)がマッチングで競争するには、それ以上のスコアを取ることが求められると思います。

 

アンダーソン:ボストンで、病理フェローや指導医としてマッチするためにはどうしたらいいでしょうか。

原先生:レジデンシーに比べれば、フェローとして入ること自体はそこまで大変ではないと思います。ただし、病理の場合はフェローシップの枠そのものが非常に限られているんです。病理のフェローシップにもさまざまな分野があります。呼吸器病理、消化器病理、婦人科病理、泌尿器病理、神経病理、乳腺病理など細かく分かれており、それぞれ専門のフェローシップを持つプログラムを運営している病院は限られています。例えばタフツ大学には病理のレジデンシープログラムはありますが、フェローシップは一般外科病理くらいしかありません。一方で、マサチューセッツ総合病院(MGH)、ブリガム&ウィメンズ、ベスイスラエルなど大規模病院には複数の専門フェローシップがあります。ただし、それでも各分野で採用されるのは年間1〜2人程度です。例えば呼吸器病理に限れば、ボストンでフェローシップを提供しているのはブリガム&ウィメンズだけで、募集は1人だけです。私も応募してエレクティブ(短期実習)で1週間参加しましたが、「あなたを採りたいけれど、すでにインハウス、つまり自分たちのレジデントから希望者がいて、その人に決まっている」と言われました。外部から来る者にはチャンスが非常に少ないのが現実です。そのため、私は現在ミシガンでフェローシップを行っています。ここは私が以前から研究していた間質性肺炎に強い施設で、自分の興味とも合致しているので満足しています。

 

アンダーソン:病理レジデントは、レジデンシーが終わったらそのままフェローには進まずに働き始める人が多いのでしょうか。

原先生:そうでもないと思います。むしろフェローシップに進む人は結構多いですね。やはり4年間のレジデンシーだけで、すぐに「はい、では明日から症例をどんどん診断して、最終レポートを責任持ってサインアウトしてください」と言われると、自信が持てない人が多いんです。そこで、もう1年フェローシップで専門性を高めてから就職したい、という人が多いと思います。ただ最近は病理医の求人市場が良く、レジデンシー卒業後すぐにポジションを得られるケースも増えています。そのため「フェローは必ずしも必要ない」という考え方も出てきていますね。

 

アンダーソン:これまでの留学人生の中で一番大変だったことは何でしょう。

原先生:やはり一番はコミュニケーションですね。勉強は自分との戦いなので、自分が頑張れば結果がついてきます。でも人間関係は相手あってのものなので、特にアメリカのように多様なバックグラウンドや価値観を持った人たちが集まる環境では、自分にとって当たり前のことが相手には当たり前ではない、という場面がよくあります。逆に遠慮して何も言えなくなってしまうこともあり、そのバランスを取るのが一番難しいと感じています。ただ、家庭や地域での人間関係はとても充実していました。日本にいた頃は医師以外の人と交流する機会があまりありませんでしたが、アメリカでは娘を通じて学校や地域のコミュニティに参加するようになり、医療以外の分野の人と話す機会が増えました。最初は会話がかみ合わず戸惑うこともありましたが、相手が私の背景を理解してくれるようになると、とても楽しく過ごせるようになりました。一方で、職場での人間関係は今でも大きな課題です。レジデント時代にチーフを任されたこともありましたが、それぞれが自由に意見を言う中で「なぜこんな自己中心的なことを言うのだろう」と思う場面も多く、どうやってチームをまとめるかに悩みました。もちろん日本でも職場の人間関係で悩むことはあると思いますが、アメリカの多様性の中で調整していくのは、特に難しさを感じました。

 

アンダーソン:フェローやチーフレジデントといった上の立場になると、アメリカ人を教育する場面も増えますよね。日本で医学教育を受けてきた立場から、実際にアメリカで教えることに苦労はありましたか。

原先生:そうですね、日本では講義形式が中心で、先生が一方的に話して学生がノートを取る、というスタイルが多いと思います。でもアメリカでは「ディスカッションしながら学ぶ」という文化が強く、質問や意見交換を通じて理解を深めていくのが一般的です。私はそういう教育を受けていなかったので、最初は少し苦手だと感じました。ただ、だからといって無理にアメリカ流に合わせる必要はないと思っています。アメリカでも人によって教え方は様々で、たくさん話す人もいれば、淡々と知識を伝える人もいます。結局は自分のスタイルで、自分が知っていることを誠実に伝えればいいのだと思うようになりました。

それから教育の場では「360度評価」という仕組みがあり、同僚や下級レジデント、上級医など周囲の全員からフィードバックを受けます。ただ、私は年齢的にはかなり上でレジデンシーに入ったので、下から評価されること自体はあまり気になりませんでした。むしろ指導医やアテンディングの中にも自分より若い人が多いので、若い人に評価されるのは日常のことです。アメリカでは年齢や上下関係にあまりこだわらず、知らないことがあれば素直に学ぼうとする雰囲気があります。その点はとても働きやすいと感じていますね。

 

アンダーソン:日本では病理医の不足が問題になっていますが、アメリカではそうした印象はあまりありません。なぜアメリカでは病理医が一定数確保されているのでしょうか。

原先生:
そうですね、日本の事情を詳しく知っているわけではないのですが、アメリカでは病理医のかなりの割合が外国人です。実際、自国の医学部を卒業後にアメリカでレジデントになったり、自国で数年間病理医として働いた後にアメリカのレジデントをやり直したりする人も多いですね。私のようにキャリアチェンジをして病理に入ってくる人も少なくありません。それだけ「入りたい」と思う人が世界中にいて、病理の定員が埋まっているのだと思います。加えて、最近はアメリカ人の間でも病理の人気が高まってきています。その理由の一つは働き方にあります。病理は他科と比べてQOLが高く、自分の時間を確保しやすいのです。また、AIをはじめとする新しい技術の導入が進み、分子診断など新しい分野が広がってきていることも、将来性を感じさせる要因になっています。

 

アンダーソン:最後に、これから病理医を目指す医学生や医師にメッセージをお願いします。

 

原先生:やはり病理は、病気の原因を突き止めたい、なぜ病気になるのかを根本から知りたい、診断の力で医療に貢献したいという人に、とても向いている仕事だと思います。

また、自分のペースで勉強や仕事を進められる点も魅力です。さらに近年は分子病理やAIなど、新しい技術がどんどん導入されており、可能性が広がり続けています。そうした意味でも、選んで損のない分野だと感じます。血を見るのが苦手だったり、臓器を扱うことに抵抗があれば難しいかもしれませんが、探究心のある人にとっては飽きることのない領域です。

 

そして、キャリアは最初から一つに決める必要はないと思います。私自身、さまざまなことを経験しながら最終的に病理にたどり着きました。若いうちは興味のある分野にどんどん挑戦してみていいのではないでしょうか。仮に最初に決めた道と違う方向に進んだとしても、それは決して間違いではありませんやりたいことを調べて、挑戦できる環境があるなら、一歩踏み出してみる。そうすればきっと、楽しい人生につながると思います。