お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。

 

世の中はごく一部の没頭する人たちによって支えられている。

 

学校が終わるとダッシュで家に帰る。小学校から家までは徒歩で5分の距離だ。玄関にランドセルを放り投げ、すぐさまマンションの前の公園に遊びに繰り出す。同じマンションには同学年の友達が何人かいる。「いつもの」メンツだ。申し合わせなくてもみんなゾロゾロと公園に自然と集まってくる。何をして遊ぶかは時々のブームにより変化するが、大抵は野球、サッカー、ドッジボールのどれかだ。人数が多い時は、マンション一帯を利用した広範囲隠れんぼなんてのもあった。堀江くんがいる時は、ガンダムごっこだ。私は好んでジオン軍に扮していた。キャラが被ってはいけないルールだったので、やはりシャア専用モビルスーツは競争率が高かった。大抵の場合、私は皆がシャアの取り合いで紛糾している間に、黒い三連星のドムをゲットしていた。戦闘ではもちろんジェットストリームアタックをかけまくっていた。ホバークラフト効果で高速移動が可能な設定も好きだった。とにかく毎日毎日放課後は公園に繰り出して無我夢中で遊んでいた。晴れの日はもちろん雨の日も風の日も遊びに明け暮れていた。台風が来たり雪が降ったりなんかしたら、そりゃもうお祭り騒ぎだった。たくさんの友達と思う存分遊んだあの懐かしい日々の経験は、現在の私の核を形成している。私が積み上げてきたものを語る上で、外すことのできない人生の一部だ。

 

私が医師になったのは20世紀に幕を閉じる世紀末のことだ。今のような初期研修制度はなく、研修医1年目にして「心臓外科医」を名乗れる時代だった。良くも悪くも古き良き(?)トレーニング方式で、「見て学べ」「研修医はベッドサイドに張りつけ」「病院を住処としろ」など、今で言うところの完全ブラックトレーニングだった。指定された初年度の休暇は「夏休み」の3日間だけだ。結果的にいうと休暇は24時間だった。なかなか休みを取る「暇がなかった」ので年の瀬が押し迫る頃に夏休みを取った。休み初日はとりあえず寝て過ごした。それまで休みなく働いていたので、いざ休みと言われても休暇に対応できるような想像力も発想力もなかったのだ。夏休み2日目に上司から電話がかかってきて「緊急来たけど手術入る?(笑)」と言われたので「そりゃ入りますよ!」って嬉々として病院へ向かった。慢性的な寝不足を一日中寝ることで解消し体調もすこぶるよくてハイテンションで手術に入ったのを覚えている。外科医1年目のヒヨッコだったので手術は見てるだけだったが、それでも学べることが楽しかったし、何より心臓外科医というやりたい仕事に従事できているような気がして嬉しかった。当時を振り返ってみれば、私は幸運だった。一つは、どうやら私はどんなブラック職場に入り込んでも、自分の好きなことに集中できている限り、どんなブラックトレーニングでも「やりたい放題のホワイトトレーニング」と認識する性格のようなのだ。そして、2つ目の幸運は、上司や病院関係者はもちろん、私のトレーニングに横槍を入れるような「働き方制度」や労基指導などが一切なく、無我夢中で仕事・トレーニングに没頭できたことだ。晴れの日はもちろん雨の日も風の日もトレーニングに明け暮れていた。緊急が来たりなんかしたら、そりゃもうアドレナリン出まくりだった。同僚と切磋琢磨しながら思う存分トレーニングできた北斗の拳でいうところの「世紀末ヒャッハー状態」のあの懐かしい日々の経験は、現在の私の核を形成している。私が積み上げてきたものを語る上で、外すことのできない人生の一部だ。

 

心臓外科医のキャリアを形成していく中で避けられないものの一つに後進の指導というものがある。今まで何度となく述べたと思うが、心臓外科医は教育においてはど素人である。教育理論を勉強したわけでもなく、指導の仕方を指導された経験もない。自分のトレーニングのことだけを考えて修行に明け暮れてきたただのオタク外科医である。本来そんな世紀末ヒャッハーな輩に教育だなんておこがましいことなのだ。しかし、根本的問題となるのが、心臓外科手術は心臓外科医しか教えることができないというパラドックスが存在することなのである。心臓外科医が指導することなく心臓外科手術の継承は起こり得ないのだ。準備期間なしである日突然心臓外科手術を教えるという難題が降りかかってくるのだ。

 

さて、どうやって教えるか?

 

教育のど素人が行き着く先は押し並べて同じである。「私と同じことをしろ」である。自分が今までやってきたこと、今現在やっていることなど、今の自分を形成している核をなすものを後進にコピーさせるのが一番手っ取り早い指導であると感じてしまうためだ。むしろそれ以外の教育方法を知らないというのが正しいだろうか。指導し始めてすぐに気づくのであるが、この方法はうまくいかないのである。環境や時代が違う中で、自身の「昔の経験」を後進に「今経験」させることは不可能に近いからだ。そして決定的に違うのは、私自身が通ってきたトレーニングは、ほぼ全て私が自ら欲し通ってきたものであり、誰からも強制されたものではなかったという点である。私自身が能動的に享受し学んできたものを、私の能動的教育により後進に教授する時点でベクトルの向きが完全に逆方向となり、それは後進にとって受動的なトレーニングに成り下がるのである。能動的に与えることで、受動的に受け取る以外の選択肢がない後進に対し、「そうじゃない、受動的ではダメだ。自ら学べ」と言って退けるのは教育の敗北である。そして教育に熱が入りすぎる者ほど、自身が「能動的教育による受動使役の権化」になっていることに気づきにくい。今現役で活躍する心臓外科医のほとんどは十分な指導・教育を受けてきたわけではない。ただ十二分にトレーニングに没頭する環境があっただけだ。

 

「没頭せよ」

 

指導者は後進が没頭できる環境を整えるだけで良いのだ。それを能動的に享受するか、受動的に断つかは本人の好きにすればいい。私が制御するべきでないし、何より制御できるものでもないのだ。最近の私の指導方針である。

 

さて、本題のラジオです。今回は、「逆向き」に翻弄された暑くて寒い心臓外科医のおっさんの物語です。それではおっさんずラジオvol.23「ねじれの位置 〜守〜」で無駄時間の極みをお楽しみください。

 

 

「今の若いもんは、わかっとらん」

「働き方改革だかなんか知らんが、私が若い頃は完全ブラックだった」

「苦労もせずに外科医になれるわけないじゃろ!」

「息をするが如くトレーニングせよ!」

 

大概の場合は、老害の発する昔話は、嘘ではないにしろ真実ではない。思い出は美化されやすく、思い込みにより捻じ曲げられることが多い。

「思う存分公園で遊んだ」「思う存分トレーニングしてきた」

嘘ではないけど真実ではない。本当のところは、どんなに公園で遊んでも遊び足りなかった。夕暮れがくるとオカンがベランダから声をかけてくる「コラ!もう暗くなってきたから帰ってきなさい!」まだまだ遊び足りなかったけど、仕方なく帰った。どれだけ緊急手術に入って学び、机上で練習しても足りないような気がしていた。常に「手術させてくれ」「人事は尽くしている、きっと自分は手術できるはずだ」と執刀を渇望していた。

 

ねじれの位置にあるベクトルは交わることはない。それが定義だからだ。交わるはずのないものを交差させたと思わせるのが「思い出補正・思い出美化」である。老害の話は聞くに値する。ただ真に受ける必要はない。私の書く戯言もその程度のものだ。だから、個人的にはこのブログを読んでほしいとは思うが、真に受ける必要はないのである。