2023年2月7日夜(日本時間で2月8日)、東京にいる弟からLINEを通じて「親父が亡くなった」と連絡が来た時は、ここアメリカのミシガン州デトロイト郊外でアイスホッケーの試合中だった。私は週に数回、アイスホッケーを楽しんでおり、その日も地元の40歳以上のアイスホッケーリーグの試合に参加していた。その数日前から父の主治医から父の病状が悪化しているという報告を受けていたので、万が一と思ってベンチに携帯を持ち込んでいた。弟からのLINE着信が鳴った瞬間に「親父に何かあったな」と直感したが、その通りだった。
父は老衰で亡くなった。84歳の大往生だった。最後は苦しむこともなく、長期療養施設で人生を全うした。口下手で不器用で自分のことはあまり話さないが、何より子煩悩な父だった。私たちが2012年にアメリカに渡った後も、孫のために「いわた書店」という市内の本屋からこどものための本を購入して、長年ずっとアメリカまで送ってくれた。しかし、認知症の進行のために次第に本を送ることが難しくなった。約3年半前の2019年の年末に父が入院した際に、私は1週間ほど北海道の実家に父を見舞うために帰省した。私は小児脳神経科医とはいえ、成人脳神経科のトレーニングも受けていたので、父の認知症の進行度から、もう家に戻ってくることはないとすぐにわかった。かつて親子4人みんなで寝ていた実家の2階の部屋にひとりで寝ていると、昔の元気だった父を思い出して、泣けて仕方がなかった。それから約3年半近く経ち、心の準備をする期間ができたためか、弟から父死去のメッセージが届いても、自分でも驚くほど動揺はなかった。そのままアイスホッケーの試合に最後まで出場して、その試合は勝利した。
試合が終わった後は、涙が溢れ出るような慟哭もない代わりに、なんとも言えない虚脱感というか、心のどこかに穴が空いたような空虚感に襲われて、アイスリンクからロッカールームにすぐに移動する気分になれず、試合終了後に誰もいない氷上でただひとり、天を仰ぎながらしばらく滑っていた。後に友人のひとりが「試合後もノリがずっとリンクの上でひとりで滑ってて、様子がおかしいから、何かあったんだなと感じてた」と話してくれた。ロッカールームに戻ってから、チームメイトに親父が試合中に亡くなったこと、そして、その日の勝利は私の人生になんらかの特別な意味を持つだろうと話した途端、ロッカールームが「シーン」と静まり返った。チームメイトもいきなり面喰らったのだろう。みんな声をしばらく失っていた。私の所属するデトロイト郊外のおっさんアイスホッケーリーグ(40歳以上)には他チームを含めて80人前後くらい所属しているが、どうみんなに伝わったのか、大勢のアイスホッケー仲間たちから立て続けにお悔やみのメールをいただいた。あるアイスホッケーの仲間は試合が終了して以下のメールを送ってくれた。“I admire your stoicism and equanimity in the face of this news. We’re all with you in spirit, brother. Safe travels …”(試合中に父親が亡くなっていたにも関わらず、ストイックかつ平静を保っていた君に敬意を表したい。みんなの思いは君とともにある。気をつけて日本に帰ってください)。冥土の父も「なんで俺のことがアメリカでこんなに話題になっているんだろう?」と苦笑していたに違いない。
父が亡くなった後の通夜・葬儀・告別式の準備は、長男である私が海外にいるため、東京にいる弟が北海道にすぐに帰り、全て取り仕切ってくれた。本当に頼りになる自慢の弟だ。問題は、私がアメリカから間に合うかどうかだった。親父が亡くなった翌日は外来があるため、日本に発つことができなかった。正確にいうと、その外来を全てドタキャンして日本に飛ぶことも不可能ではなかったが、医師としての倫理観がそれを許さなかった。父が亡くなった翌日の外来予約患者全員を診てから、結局は父が亡くなった翌々日に妻と息子たちをアメリカに残して、私ひとりで北海道に向かった。札幌雪祭りの時期と重なったせいで北海道へのチケットがなかなか確保できず、最後までひやひやしたが、通夜には何とか間に合った。母と弟、そして親戚とも無事に合流して、通夜・葬儀・告別式を済ませて、約1週間の北海道滞在の後にアメリカに戻った。
父は戦前に生まれて、物資も食べものもない時代に育ったために高校には行けず、中学を卒業してすぐに就職せざるを得なかった。非常に貧しい経験をしたせいだろう、本当に物を捨てられない人だった。実家を見渡すと、父が遺したさまざまな物で溢れている。決して必要とは思えない物の多さに、母は父に「いらない物は処分して」とよくケンカをしていた。口下手な父は母を言い負かすことができず、捨て台詞でケンカは大抵終わった。「俺が死んでから捨てればいいべさ」。私たちにとってはガラクタでも、物が手に入らなかった時代を生き抜いた父にとっては宝物だったのだ。遺品を整理しようとしても、物理的にも感情的にもたった1週間の滞在では無理であった。弟とも話し合い、今後、機会を見つけて少しずつ片づけることに決めた。
アメリカに帰るまでに少しでもと押入れを片づけていたところ、不思議な小さな木箱を見つけた。開けると中には釣りの浮き道具があった。普段の私であれば、何も考えずに処分してしまうのだが、その時に限って何かが心にひっかかった。まず、父は釣りをしない。父が釣りをしている姿なんて、ただの一度も見たことがない。母にも聞いたが、なぜそんな木箱があるかわからないと言う。「なんで親父がこんなものをずっと持っていたんだろう?」。すぐに処分する気にはなれず、私が小さい頃からお世話になっている一回り年上のいとこ(父のおい)のT兄ちゃんなら何か知っているかもと思い、尋ねてみることにした。
いとこのT兄ちゃんにその木箱を見せたところ、即座に「これはじいちゃんのだ!」。T兄ちゃんの話によると、父方祖父(父の父)は川釣りが好きだったそうで、父がまだ若かった頃に、祖父を川にドライブして連れていったこともあったはず、と語ってくれた。そんな話は初めて聞いた。父がどういう気持ちで祖父の形見である釣りの木箱を手元に残していたのか。祖父は、私が小学生高学年の時にはすでに寝たきりになって老衰を迎えたので、会話した記憶すら乏しい。しかし、父と祖父の間には、他人には介入できない親子のつながりが存在していたのだ。「この木箱を見て、死んだじいちゃんのことを思い出すこともあったのかい?」と、思わず遺影の父に話しかけていた。祖父の木箱を通じて、今まで知ることのなかった父の一面、そして綿々と紡がれてきた命の縁を感じたのだった。
私は2012年に家族と一緒に渡米してから、今年でアメリカ生活12年目を迎える。親が高齢にも関わらず、海外に滞在するという選択をした以上、『親の死に目には会えないだろう』という覚悟を持って生活している。事実、父の最後の瞬間には立ち会えなかった。そのこと自体には悔いはない。父も理解してくれるはずだ。ただ、虚無感・喪失感には苛まれた。ある時、小児神経科クリニックの看護師が私が父を亡くしたと聞いて、彼女の夫も実は2年前に50代前半という若さで膵癌で亡くなったと打ち明けてくれた。私はその看護師にそんな過去があったとは知らなかった。会話の最後にその彼女が一言 ”Dr. Kuwabara, time is a gift”。アメリカで長く過ごしていると、英語で話しているにも関わらず、日本語のように心に沁み入って響く瞬間を経験する。彼女と会話したこの時もまさにそうだった。“Time is a gift”。 直訳すると「時間は贈り物」。父を失った私が、この時間に関する会話を通じて実感したふたつの教訓を共有したい。
第1の教訓は「近親者を失った後に湧き上がる虚無感や喪失感を癒すには何よりも時間が必要となる」。人として生まれた以上、誰しも死を避けることはできないことは理解していても、それでも親の死は切ない。私は幸いにも、妻と息子たちを含めて、周囲の支えてくれる人たちに恵まれている。親の死を受け入れる過程は辛いが、必ず時間と共に和らいでいく。過ぎゆく時間そのものが何よりもの心を癒す治療となる。私がまさに今それを実感しており、ゆっくりと寂しさが和らいできている。
第2の教訓は「命そのものが有限であることは当然として、親子が共有できる時間はさらに短い」。親がこどもと一緒に過ごせる時間は、実は想像以上に少ない。こどもが小学校、中学校、高校と年齢が上がるにつれて家にいる時間は少なくなる。さらに、成人したら実家にはなかなか帰らない。NHK番組『チコちゃんに叱られる』で以前に取り上げられていたが、日本人の平均寿命が80歳を超えてさらに伸びている現代でも、生涯でこどもと一緒にいる時間は平均で母親は7年6か月、父親は3年4か月しかない。親子が一緒に過ごす時間というのは、互いの限られた命を削って向き合っている貴い刹那なのだ。祖父の木箱を父がずっと持っていたということは、父と祖父が一緒に過ごした時間が、父の人生にとって特別な意味を持っていた証であったと思う。
自分という命の前に、たくさんの命がつながっている。今回の帰省は私のみで、息子たちは棺の中に収まった父に会うことはできなかったが、もうすでにかけがえのない贈り物が与えられていることをいつか理解する日が来るだろう。父の死は寂しさと引き換えに、たくさんのものを私たちに遺してくれた。
父さん、ありがとう。父さんの息子に生まれて幸せでした。
夏には妻と息子たちを連れてまた北海道に会いに行くよ。
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