お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。
私が学生だった頃、「恋のから騒ぎ」という番組がありまして、よく観ていました。なぜこの番組を好んで見ていたかというと、美人のお姉様方がたくさん出演されているというのも確かにありましたが、本当の目的はさんま師匠が司会だったからです。たくさんの素人女性出演者の話をさんま師匠が聞いて番組が進行していくのですが、演者のどんな話にも瞬時に巧みな返しで笑いにつなげ、編集の力があるとはいえ振られた話題をほぼ100%の確率で笑いに昇華するさんま師匠の話術に私は憧れていました。そしてその憧れには動機付けもありました。当時私はバスケ部に所属していたのですが、そこには「話術オバケ」がごろごろいたのです。彼らは、場所やメンツを問わずいつもその場のトークを掌握し、場にいるメンバーをヨゴレ・イジリ・置き物・ひな壇・相方等、刹那的役割を暗に割り当て、前フリ・ボケ・ツッコミ・小オチ・大オチと淀みなく会話を進行し場を飽きさせず盛り上げていくのです。私はバスケ部内では寡黙な方だったので、必然的に置き物系に割り当てられることが多かったと思います。裏島太郎の寸劇で例えるなら竜宮城の海藻役みたいな立ち位置です。そんな「バケモノ」達の長けた話術を羨ましいと思う一方で、私には海藻としての役割がちゃんとあるわけで、それはそれで全うしようという責任感のようなものもありました。たまにあらぬ方向から冷静なツッコミを入れたりするのも海藻の重要な役目だったからです。海藻で居続けることに意義を唱えるつもりはありませんでしたが、いつか私に浦島太郎役、もしくは乙姫役を担う機会がまわってきたときにしっかりとこなせるように最低限の知識や技術は身につけておかなくてはいけない。そんな風に思っていたのです。それが「さんま師匠を観て学ぶ」という動機へと変わっていったのです。毎週欠かさず番組を観て、面白い話を聞くというよりは、さんま師匠がどのように場を捌いていっているか観察・研究していました。その甲斐があってか、徐々にさんま師匠の癖(テクニック)が漠然と分かってきたように思いました。例えば相手の話がそれほど面白くなくても大袈裟に自分が笑うことで周囲の笑いを誘い出している、相手の話を引き伸ばすつもりがなくて一旦話を切るために小オチが来たタイミングで「ボケ・オチをメモる」ネタを入れて終わらせる、テーブルを叩いて大笑いしている間に返すネタを考えている、リアクションしにくい話題・状況になったときはゲストに話を振って違う角度から話題を誘発しゲストにツッコむことで話題を昇華する、こんな感じでなんとなくの推測を元に独学で学習を重ねておりました。特にゲストやヨゴレ担当の出演者をバッファーとして活用する手法は、とても重宝しており私もよく拝借・活用しております。また、番組出演者の構成上、さんま師匠をボケやツッコミでサポートする人がいないため(天然ボケを除く)、一人で場を収めないといけないスタンドアローンな状況での取り回しも勉強になりました。これに関しては、スタンドアローンの時は私ではさんま師匠のように場を捌けないということを学び、周囲の色に同化するしかないと悟りを開いたというのが正しい表現でしょうか。
長くなりましたが、つまり何がいいたいかと言うと、昔「恋のから騒ぎ」という番組があったということです(え?それだけ?)。それでですね、本題に移りますと、ある日その番組内で一人の出演者の方が、こんなことを話していたのです。
「私は物忘れがひどいんです。シャワーを浴びていて自分がシャンプーしたかどうかよく忘れるんです」
そんなことあるわけない。当時の私が最初に思った感想です。スタジオでも同様のリアクションでした。詳細は忘れましたが、その話もさんま師匠が何かしら笑いに繋げてました。なぜかこの話題の印象が強く、その後もずっと私の脳裏に焼き付いていました。当時の私は、融通の効かない完璧主義で、いわゆる頭の固い人間でした。人類とは多様であるものの、文明人である限りその成長の道のりは広義には一本道であり、誰しもが同じ関門を通り成長を重ね、成長すればするほど人は収束すると考えていました。つまり、私がそれまで辿った成長曲線上を顧みて、「シャンプーしたかどうか忘れる」なんて関門があるはずがないという結論に達していたのです。完璧主義の私にはもし自分がシャンプーをしたかどうか忘れるなんてことがあれば絶対に受け入れられなかったと思います。その後はシャンプーする度に、「今、私はシャンプーした。この事実を忘れるなんてあるわけないやないか」となぜかプンスカしながら毎日余事象を証明し続けて完璧主義の自分を納得させていました。当初は寝ても覚めてもそのことが頭から離れませんでしたが、毎日証明し続けることで納得したのか、何年か経ってそのことは忘れてしまいました。時は流れ、つい数年前だったでしょうか、事件は起こったのです。ひどく疲れて帰宅しバタンQ(死語)した翌朝、出勤前にシャワーを浴びていた時、忘れたのです…信じられないことに自分がシャンプーしたかどうか忘れたのです。厳密には「シャンプーしてないと思うけど、確証がない。もしかしてシャンプーしたのかもしれない」です。あり得ない事態でした。困惑の中、昔の恋のから騒ぎのあの話題が脳裏に再び呼び起こされました。そんなことあるわけない、そんなことは私自身が許せない!!…はずでしたが、そうでもありませんでした。「まあシャンプーしたかどうかは不明だけど、ダブってもいいからもう一度シャンプーするか…」って案外すんなりと受け入れている自分に逆に驚きました。その後、しばらくまた寝ても覚めても考え続けていましたが、ふとある結論のようなものにたどり着きました。
「準備ができている者のみに事象は起こるものだ」
学生時代の私には自分がシャンプーをしたかどうか忘れるという事象が起こったとしたら、その事実を受け入れることような器を到底持ち合わせていたなかったと思うのです。「シャンプーしたのを忘れる」という関門は若き日の私はそれまでの自身の人生の軌跡上にそれがないことを理由に否定していました。しかし、その関門は私の人生のずっと後に訪れる定め事だったのです。半世紀生きてやっとそれを受諾できる「器」を手に入れたという事なのでしょう。「恋からシャンプー姉さん」は、当時おそらく二十代の若い方でしたが、私よりもずっとずっと人生の駒を先に進めていたということなのでしょう。あんなに若くして「シャンプーしたのを忘れる」ことを許されたのですから。
人生を可視化した場合、その形態とは一体どのようなものなのか。成長の道のりは四方八方に伸びる無数の網目のような形態をしており、上下左右、東西南北、一次元から四次元までとりとめもなくそこにある無限であると私は現在のところ認識しています。どんなに人生を注視していても、予想だにしない角度からあり得ないものが干渉してくる。ただ、受け入れる準備のある者にのみ、その「あり得ないもの」は訪れるのです。いえ、おそらくそのあり得ないものは四方八方から常に我々の人生に降り注いでいるのです。ただニュートリノのように感知できず通り抜けてしまっているのです。「大体なんでもあり」を受諾できる無敵の器があれば、人生はとても面白くなる。いろいろなとんでもないことを無限に感知・受諾できれば人生はもっと進化し発展する。人生の道すじは収束するのではない、発散するものなのです(知らんけど)。
さて、何を言ってるのは自分でもよくわかりませんが、本題のラジオです。今回は、おっさんずラジオライブを受諾できる器の獲得のため右往左往する心臓外科医のおっさんの物語です。それではおっさんずラジオvol.26「夙夜夢寐」で無駄時間の極みをお楽しみください。
2023年のチームWADAライブの準備をしている頃から、おっさんずラジオもライブ化したらどうかという話題がチームWADA内外でちらほら出ていました。当時の私はそんな噂に対して「そんなことあるわけない」と思っていました。おっさんずラジオをライブ化し成し遂げるイメージが全く湧かなかったというのもありますが、何より私にはその「器」がなかったのです。おっさんずラジオライブの「器」を最初に会得したのはオーノ先生でした。都合上、全カットになってしまいますが、電話で延べ10時間近くオーノ先生は私に「器」を授けるべく奮闘していたと思います。「おっさんずラジオライブの器」なるものの存在を知らされてから、表向きはのらりくらりと天邪鬼を演じながら、実際は寝ても覚めても何をどうすればライブが成就するか考えていました。そして、一旦は私の中で原案が完成したのです。我ながら完璧でした。まあ完璧主義出身者ですので、当たり前ではあるのですが。そんな折、オーノ先生からライブの延期を余儀なくされる故の電話がかかってきたのです。あり得ない事態でした。私の完璧があらぬ方向からの「あり得ぬもの」により崩れたかに思いました。しかし、そうではなかったのです。単純なことで、私が「完璧」だと思っていたものは実は完璧ではなかった、ただそれだけのことです。私の中の「おっさんずラジオライブの器」はまだ未熟であり、オーノ先生の「器」に便乗していただけだと気付いたのです。なぜ今回その「あり得ぬもの」が私に降りかかってきたのか沈思した時ふと恋からシャンプー姉さんの件が頭に浮かびました。準備ができている者のみに事象は起こる。。。私にはこれを受諾する器が備わっているはずだ。。。雁字搦めの思考を無理やり回して頭の中で思索していました。結論として、おそらく熟慮して積み上げてきた私のライブ原案は収束を重ね既に一本道に入り込んでおり、まるでナイフエッジを登攀しているかの如く、横風などの「あり得ぬもの」の干渉に対して非常に脆いのだという考えに到達しました。このままではライブが実現したとて数々の予期せぬ出来事を切り抜けて昇華させることなど到底叶わないと思ったのです。
「もう洗いざらい晒して原案を更地にしてしまえ」
これは天より舞い降りた啓示なのだ!そんな厨二病的思考で今回虎の子のライブネタをラジオで公開するに至ったのです。
………嘘です。
オーノ先生にそそのかされて、何も考えず思わずしゃべっちゃっただけです。そのラジオを将来のライブ完遂後まで温めておくことができず思わず公開しちゃっただけです。それに伴い何かウンチクを書かないとなと思って後付けで御宅並べたちゃっただけです。
ただ、ライブの原案に関しては本当に更地になってしまいました。でも自分の意志で更地にすることができた今の私には、借り物ではない自身の「おっさんずラジオライブの器」が実装されたように感じています。これからまた思考の海に漕ぎ出せるかと思うとワクワクします。思考の海の片隅でずっと海藻役に徹してきた私が今度はどんな役を担えるのか楽しみでなりません。乱文の海にめげずここまで読み続けていただいた読者の皆様、ありがとうございます。あなたにもきっと「おっさんずラジオライブの器」が備わっている。ライブでのあなたの役はなんですか?
いつかライブにてお会いできるのを楽しみにしております(未定やけどね)。
追記:先日、またあり得ない事態が起こりました。
ひどく疲れて帰宅しバタンQ(死語)した翌朝、出勤前にシャワーを浴びていた時、忘れたのです…信じられないことにリンスを洗い流すのを忘れたのです。通常、シャンプー→流す→リンス→体洗う→洗顔→全身流すというルーティンなのですが、なぜかシャワーから上がってバスタオルで拭いている時、頭がベトベトなのに気付きました。
「え?!…もしかしてリンス?流してない?そんなことある?!」
でも平気です。まあそんなこともあるのですよ。大体なんでもありですよ。人生は収束するのではなく発散しているのですから。
副代表、大野先生素敵なお話を有り難うございました。大野先生の副代表に対する温かい思いからお二人の信頼の深さを感じました。本当に有り難うございました。
ありがとうございます。オーノ先生はあー見えて(どう見えて?)実はボンボリさんのついたキャップを被ってクマのぬいぐるみを抱っこして寝るようなメルヘンチックな感じであることをここでこっそり暴露しておきます。今後ともよろしくお願いいたします。