お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。
外科医のトレーニングにおいて、それを趣味のごとく没頭し学ぼうとする人と、時間割の授業をこなすように学ぶ人とでは成長のスピードが格段に違う。感覚的には最終的に到達するレベルも違ってくる。前者は時間を忘れ睡眠時間を削り、起きている時間の全てを「趣味」に使ってもなんの苦にもならず、むしろ幸せであると感じている場合が多い。いわゆるWorkaholicと形容されるカテゴリーにいる人たちに含まれるのであろう。後者については例えが適切でないのは承知で説明するが、目的達成のために必要な「授業」であるのは理解し出席はしているものの、授業に集中せず、淡々と授業を受け終了時刻が来るのを待ち望むような人たちをここでは限定して指す。授業が終われば速攻で帰るし、授業時間以外に勉強する気などない感じだ。ここで私が説明したかったのは2つだ。1つ目は両者を比べると前者の方が外科医として成長が早く、到達できるレベルが高いのは当たり前のことであろうということ。2つ目は実際には前者と後者の二極論ではなくその間には2「色」が多様な割合で混じり合った人達が無数にいるということだ。また、生涯を通じて同じ場所にいるわけではなく、時の流れと共にもしくはトレーニングの段階によって様々な領域を渡り歩くというのも普通にあることだ。長く外科医をやっていると前者のようなworkaholicの人にたまによく遭遇する。かつて私もその部類だったことがある。全ての人というわけではないが、前者の人たちが持つ特徴的な性質として、自分と「そうでない人」に二極化し、自分と「同じでない」人たちのことが理解できないのだ。不幸なことに自分の領域こそが至高だと思ってしまう傾向がある。前者の気質はトレーニング初期には非常に都合が良い。つまり脇目も振らずにトレーニングに没頭し、あらゆることを高速で吸収しすごいスピードで進化を遂げる。いわゆる真面目でよく働く「デキる」やつだ。この時期には「そうでない人」のことは目に入らない。自分自身が全て、自分のトレーニングこそが全てであり他人には興味がないからだ。ただ前者の状態の外科医が「そうでない人」のことを理解できないままで指導医になると非常に厄介なのだ。そもそも至高の自分自身以外に興味を示したことのない人種なので、大抵の場合は教育などという難しいことについて考えたこともない。結局は自分の通ってきたレールに乗るように指導するしかできないのである。「私が研修医時代には。。。」って感じで老害あるあるの始まりである。また、トレイニーが範疇外の「そうでない人」の場合には全く対応できず、その指導医はパワハラかネグレクトの二択しかなくなるのである。自身のトレーニング哲学と一致しない者に対して「君は外科医に向いてないから辞めた方がいいと思うよ」なんてわかった風なことも言ったりする。それでも少し考えることはする。つまりトレイニーを選抜するのだ。「弟子をとる」なんて言い方もある。自分と同じ気質を持つ人を弟子にして自分のレールに乗せるのが一番簡単な教育法だからだ。指導医が思うようなトレーニングをトレイニーが辿って急成長を遂げる。一見このトレーニングの状態はWin-Winの関係性であるように見える。しかしそれは半分その通りで、半分はその限りではない。先の「2つ目」に関連がある。人は多様性の結晶であり言い換えれば自分と同じ人間などいないということだ。トレイニーは自分のコピーではないのだ。同じ気質の弟子を取ったとしても、領域内で自身の絶対位置とは異なるグラデーション化された無数の「色」が存在するのだ。ただ、優秀な弟子は自分のために最適な学び方を心得ている。自分の波長を師匠に合わせることができるのだ。指導医が「選抜」して自分と同じ気質のトレイニーを見つけたと思っているが、実はほとんどの場合、トレイニーが弟子を名乗るために波長を師匠に合わせてくれているにすぎない。自分のレール上で急成長を遂げる弟子を見て、指導医は全て自分のコントロール下にあり、めでたくも自分は優秀な師匠であると誤認したりもする。優秀な弟子は師匠を誤認させることによって自分の成長のために有利な環境を作り出すのである。実は弟子は自分とは同じカテゴリーですらない可能性もある。優秀な弟子は自分の成長のために気質を一時的に変える・偽ることすら可能なのだ。医学教育の現場は指導医・師匠が中心にいるのではない。トレーニングの場ではトレイニー・弟子が主人公であり指導医・師匠は踏み台としての機能しかなく彼らの糧にすぎないのだ。その証拠に世に一人として同じ外科医は存在しない。指導医自身も自分がトレーニーの時には同じように環境や人に波長を合わせ自分の成長のために今自分はどのような役を演じるべきか最適解を見つけ出し成長してきたはずなのであるが、自分が指導する立場になる頃にはなぜかそのことがすっぽりと記憶から抜け落ちてしまうのだ。
私はアメリカで独立した外科医となってもうすぐ10年になる。独立した当初は私は例のカテゴリーにいた。Workaholic気質だ。指導医ではあるのだが教育にはなんの興味もなかった。自分の成長に関すること以外無駄だと思っていた。必然的に「そうでない人」のアメリカ人フェロー達は私に寄り付かなかったし、寄せ付けなかった。独立後4−5年経ったある日、変化の時がやってきた。諸事情あって私がフェローを雇うことになった。弟子を選抜したのだ。かの有名な北原代表がその初代だ。歴代の弟子はとても優秀だった。結論から言えばその恩恵を受け成長したのは指導医である私の方だった。彼らは私の提示したレールに乗るのがとても上手だった。そしてレール上で急成長した。ちゃんと私も「これぞ医学教育。我それを極めたり」と誤認した。勘違いにゆっくりと気づき始めたのはここ最近1−2年だろうか。それは私の弟子が卒業し私の元を離れていった後に分かったのだ。卒業し私のレールに乗る必然性のなくなった彼らは、しばらく見ない間に飛躍的に成長していたのだ。そして現在進行形で成長し続けている。しかも、私の「色」とは全く異なる外科医としてだ。卒業当時彼らは完璧なまでの私のコピーだった。しかし、私のコピー部分は彼らの血肉の一部となり、彼らは今の私が到底及ばない素晴らしい外科医になっていったのだ。その現実に気づいたとき、すっぽりと抜け落ちていた記憶が私にも戻ってきた。私の過去の指導医達は本当に素晴らしい外科医だった。私は彼らを完璧にコピー&ペーストした。その経験を私の血肉として吸収し今の自分を作り上げたのだ。今私は弟子達から教わり成長している。どこかの偉い人が言った「人は教えることによって最も良く学ぶ」というのはおそらく真実だ。教えることを放棄してはならない。教育の放棄は自身が学ぶことの放棄に他ならない。教えることはつまり自身の成長に直結しているのだ。
だから私は教えるのだ。
「・・・・お、おう」
(なんか勝手に語ってドヤ顔してるなぁ。。。)
まあそうなりますよね。それが普通の反応だと思います。気に留めずスッと流しといてあげてください。誰も聞いてないのに勝手に一人で語っちゃうのはおじさんあるあるですから。そういう意味ではブログは私に合っているのだと思います。「今時ブログって古りーな」ってなりますが、とにかく自分の話を自分で聞いてあげる場としてはブログは最適なのです。一方通行なのであまり人にも迷惑をかけませんし。自分の考えをまとめて文字列に起こして、自分がどんな人でどんな段階にあるのかを客観的に観察するのは大事なことなのではないかと最近感じています。自分が一生懸命トレーニングして積み上げてきたものは自分で肯定してあげたいし、それを誇りに思うほど今の自分に自信を持つことはとても良いことだと思うのです。個人的には心臓外科医として強い自己肯定感がないとあの多大な精神的ストレスの中、きっちりと手術を成し遂げるのは難しいとすら思います。自信満々の「我は覇者なり」系か究極に何も考えてない猪突猛進「なんとかなるっしょ!」系が心臓外科医に多いのは、そうでないとやっていけないからだと思います(怒られそう)。しかし、自分が指導側に立った時に大事なことは、後進に自分の辿ってきた道を強制するのではなく、参考程度に見せるだけで後は後進自身が「自分の道」を創り進んでいくことだと思うのです。つまり、指導とはまず自己を内に秘めるにとどめ、必要であれば自己を否定までして後進の成長を助けるものではないかと考えています。心臓外科医は誰でもなれる・誰でもできるものではありません。でも心臓外科医に教えるのは心臓外科医にしかできないのです。
まあ知らんけどね(ここまで言っといて?)。。。
ほら、また語っちゃった。ダメだわ。完全にお寿司不足です。長らく米国にいるとみんなこうなるんです(ならない)。ほら、北原代表だってなんかYouTubeショートで語りまくってスベリまくってるでしょ?(うん、スベリまくってる)
いつもの通り前置き長くなりましたが、本題です。
2022年の12月をもって3代目の弟子・根本先生が卒業しました。
根本先生、私のレールの上を一緒に歩いてくれてありがとうございました。おかげさまで私もだいぶ成長したと思います。今後はご自身の向かうべき目標に向かって自分の道を創り進んでいってください。頑張ってください。応援しています。
シカゴ大学太田
左:トレーニング初日 右:トレーニング最終日
このまえ基部置換の時に助手側に立ったら、いつも患者さんの右側からベントールやってるのとまたRootの見え方が違った気がしました。
患者さんのsideの違いは大した違いではないかもしれませんが、そういった点での前立ちすることでの術者側に立ってた時との違いや発見みたいなものはありますか。
SOさん。ご質問ありがとうございます。術者側と助手側からでは見え方は全く違いますよね。助手側から針の角度を指定する際も頭の中で3D構築し直して考えるので自身の空間認識能力(?)は向上したと思います。助手側から「手術をする」のずいぶん慣れてきました。基部とアーチ、僧帽弁の観察把握はやはり助手側からでは全部見れないので、その時だけ術者側に回って観察してます。