お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。

 

守破離とは(出典Wikipedia)

:師匠から教わった型を徹底的に「守る」ところから修業が始まる。

:師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。

:さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、既存の型に囚われることなく、型から「離れ」て自在となることができる。

 

私は「師匠と弟子」のシステムが心臓外科手術を継承する上で、最も効率が良くそして必要不可欠であると考えています。

 

米国で出会った友人(日本人医師)がかつてこんなことを言っていました。

「僕は幼少期からとても怠惰で、もし自主性に任されていたら絶対に勉強しなかったと思う。ただうちの親はそれを見抜いていて、僕を強制的に塾や私立学校に入れて、いわゆるスパルタ教育を僕に施した。親に言われるがまま、周りに合わせるがままに強制的に勉強させられていたけど、気づけば医師免許を取得してた。もし自主性に任されていたなら、絶対に医師にはなれかなっただろうし、そもそもなる気もなかった。でも今はとりあえず医師免許があれば食いぶちがなくなることはないだろうし、やりたいことも見えてきた。だから親には感謝している」

とても驚きました。当時の私は自主性のない行動など全く無駄であり、それにより何かを達成するなどありえないと思っていたからです。実際には強固なシステムに乗ることで、自身を強制的にある程度まで引き上げてもらうことが可能なのだということなのです。

 

最近は「正論」が流行ってますね。ここでは正論とは道理にかなった正しい意見や論理と定義しておきます。SNS上などでは正論で相手を「ぶん殴り」、袋叩きにすることで快感を得ることがまかり通っており、それが「正論」である限り正当化されているような印象を受けます。少し意味合いは違いますが、一昔前でいえば、いわゆる不良の人たちが、弱い者を圧迫し専制することで快楽を得るようなものに似ているでしょうか。SNS上で見受けられるこのような現象も単なる時代流れによる新しい「不良の遊び」であり、時代が流れやがて廃れていく単なる過程の一つすぎないと思えば、特段の問題はないようにも思えます。ところが「正論文化」は実社会でも浸透しつつあるようです。「正論であれば誰にも否定されない、正論であれば誰が誰に刃を向けても構わない」といった新時代のスタイルは従来の社会的弱者に大ナタを与えたのです。つまり、従来の縦社会・封建社会の下位に属していた人たちが、正論を武器に上司・会社・国などに立ち向かい、その行為が世間から「正論である」と認識されれば相手を絶対悪、自身を正義のヒーローと明確に色分けし誇示することができる文化になったのです。この現象は弱者への不均衡が是正され、とてもポジティブな側面がある一方、思わぬ副産物的文化を生み出しました。「正論をかざす者」に提案・指導・叱責・教化することができなくなったのです。

 

今の時代を創り牽引してきた猛者たちは「正論」を自分自身に向け、自らを律して叩き上げ、自分に向けた正論を突き詰めて「極論」にまで昇華することによってのし上がってきた人たちです。そんな猛者たちの指導を受け、時代を引き継ぐべき若者が、「正論」を他人に向けてぶつけて良いという新しい文化で育ったがゆえ、自分自身に正論を向けるということに全く慣れておらず拒否反応を示しているのです。まして、猛者たちの「正論的極論」を受け止められるはずもありません。怒らない、強制しない、厳しくしない、自主性に任せる、みんな違ってみんないい、できなくても大丈夫、そんな教育法を「正論」を駆使して現代の若者は「勝ち取った」のです。そして対義的に猛者たちは諦めてしまったのです。

 

日本の医学教育システムはなぜかアメリカを真似る傾向があります。しかし、日本独特の堅実で石橋を叩いて、待って、確認して、しばらく泳がして、思い出したように橋を渡るスタイルがゆえ、大体10−15年遅れで導入されることが多いかと思います。研修医の教育システムであるレジデンシーシステムもその一つです。アメリカのレジデンシーシステムは、極論を取り払い、正論のみで構築された「万人に対応した」システムであると一般化的には認識されています。トレーニングの質や量および労働環境が「正論」に基づいて整備されており、敵対的に粗探しをされても付け入る隙のないものとなっています。米国レジデンシーシステムは、途中でドロップアウトする人がいるのも事実ですが、基本的には自主性のない人でもある程度の実力を持つまでには引き上げてもらえるように設計されています。誤解のないように注釈すると、米国レジデンシーに入るのはかなりの難関であり、そもそも自主性のないような人には応募資格すら与えられる段階にも行きつかないものです。そんな「選ばれし」優秀な集団からなるレジデンシーの人たちですが、一旦システムに乗るとそのシステム色に染まり平坦化されてしまうのです。それがいわゆる一般化であり、人間の習性なのだろうと思っています。そして、批判を恐れずに言うと、その「誰からも批判を受けない”完成された”教育システム」から生み出される一般化された医師は、「その程度」の医師でしかないのです。このシステムの最大の欠点は、システムの隙や非をつかれないために卒業する(した)医師たちの実力の有無を問わない、またそれに一切の責任を持たないということです。批判されない教育を施し無事卒業させた、という事実のみが大切であり、卒業する医師たちが独り立ちできない実力しかなくても意に介さないのです。さらに近年、そんな米国医師教育システムにも現代社会の「正論の猛威」が押し寄せています。元々から平易なトレーニングは、より私生活重視型となり、もはや私が辿った中学高校のバスケ部の練習スケジュールより緩いものとなっています。私が感知しうる範囲内での心臓外科に限って言えば、指導医たちはもはや「何も教えることができない」と感じています。命を扱う現場でありながら、トレイニーのメンタル最重視の教育法しか許されず、何より教えるべきトレイニーが現場にいないというパラドックスが発生する皮肉な結果となっています。それでもトレイニー本人たちは「充実した」トレーニング生活を送り、「その程度」の実力を誇りに卒業していくのです。心臓外科においては、一般化されたレベルは確実に下がっています。しかし、私はそれを嘆いたり批判しているのではありません。私自身はそのような時代の変化をただ傍観しつつ、全く心配してはいないのです。なぜならどんな時代にでも、どんなシステムにでも、規格外の新しい猛者は必ず出現するものだからです。猛者は一般化された「平等」な教育から生まれるのではなく、突然変異種として突如現れるものなのです。彼らは一般化された人々とは一線を画し、飛び抜けた存在となります。そして、全ての猛者に共通する点として彼らは、正論によって自分自身を律し、それを極論まで練り上げてシステム内の小さな枠を簡単に超えて自分を叩き上げていくことができるのです。未来はそんな彼らによって創られ支えられるのです。だから医療教育システムがどんな形態であっても明るい未来は揺るがないのです。ただ必ず「技の継承」は行われなければなりません。それが私が「師匠と弟子」の形態が最適解であると思う主因です。それは万人に対応したシステムとは対極にあるものであり、師匠は弟子を選び、弟子は師匠を選ぶのです。そして1対1で向き合い正論的極論をもって技を継承するのです。

 

今、医療現場では最新の医療教育システムにより一般化された人々の実力の明らかな「底下げ」が起こっています。若者の皆さん、「選ばれし者」になりたくはありませんか? 皆が強制的に底上げされていた時代は終わりです。この「底下げ」の時代に突き抜けるのはもしかしたら以前より簡単かもしれませんよ? 千載一遇のチャンスかもです。奥義を伝授したいけど教える機会のない猛者たちが世界中にゴロゴロいますよ? さあどうしますか? アニメ異世界おじさんの言葉を借りるなら:

 

君の役はひたすら逃げ惑う一般民衆か? それとも。。。

 

さて、ラジオです。今回は、ある贈り物を送って強制的に実力の底上げを企むおじさんvs自主性もやる気もないおじさんのバトルを描いたハートフルな物語です。それではおっさんずラジオvol.25「奇跡の起こし方 守破離」で無駄時間の極みをお楽しみください。

 

 

ところで、このブログのタイトルは「奇跡の起こし方」です。でも、内容はそれとは何の関係もないものになってしまいましたね。実は数ヶ月前にこのラジオブログ3部作を書こうと思い立った時に、直感的に「3つ目のブログのタイトルはこれにしよう」とブログの内容も白紙のまま先にタイトルだけ決めてしまったのです。理由は、なんかカッコいいから。何となくとは言っても、おそらく意識せずとも奇跡的にブログの内容も「奇跡」に関連するものになるだろうと楽観視していたのですが、やはり奇跡は起きませんでしたね。

「奇跡:あり得ないことが起こること」

改めて見ると奇跡はなかなか起きないものだと思えますね。だって、あり得ないんですから。しかし、私は少し違うように解釈しています。ドラマガリレオより湯川准教授曰く「あり得ないことなどあり得ない。物事には必ず原因がある」。私は奇跡が起こる時には多数の必然が重なって起こるものだと思っています。誰もがあり得ないと思うような大きな目標も、たくさんの必然を積み上げれば奇跡は起こせる。いや、それを「奇跡」と呼ぶのは他者であって、当の本人は人事を尽くした上での必然の一つであると認識する、そういうものだと思うのです。あなたは今、「守破離」のどの段階にいますか? 必然を積み上げることに没頭してみませんか? 奇跡は超自然的に起こるものではありません、奇跡は起こすものなのです。

 

さて、ブログ三部にわたる長い前置きはこのくらいにしておきます。お付き合いいただきありがとうございました。

 

本題です:「没頭せよ!」

世の中はごく一部の没頭する人たちによって支えられている。