読者の皆様、こんにちは。公立玉名中央病院 総合診療科の小山 耕太(おやま こうた)と申します。この度、ニュージーランド(NZ)で勤務されていた月岡祐介先生に再度寄稿する機会を頂きましたので、僭越ながらVol. 2として投稿させて頂きます。

前回、親の都合で海外移住した子供の視点でNZ高校生活について執筆致しました。その続編として、今回はNZで育てられた結果、その子供が将来どの様に医学部に進学するのか、子連れで海外移住/留学を検討中の方々の参考になれば嬉しいです。

 

1994年にNZへ移住し、子供なりに悩み、葛藤の日々を過ごしながらも、父親の教えに素直に従った私は、徐々に友人との交流も活発になります。子供ですが、当時は15歳から運転免許が取得でき、私も早々に取得し片道20分程度のマイカー通学を開始しました。行動範囲が大幅に広がり、友人と遠方にも出かけるようになります。子供なりに恋人もでき、様々な経験をし、大人の仲間入りを始めます。日常生活において言葉の壁もほぼ無く、むしろ会話の中で分からない英語は、英語で説明してもらい教わるレベルになります。その様な中でも、なかなか突破できない「言葉の限界」を悟ります。たとえ仲の良い友人でも恋人でも、言葉の奥に潜む「言わなくても分かるもの」「阿吽の呼吸」が外国人である自分には、なかなか突破できません。私が発達障害ではない前提(笑)で申し上げると、この部分は育った国・環境・文化、躾、人種で差があり、努力で解決できるレベルではないのだと思います。おそらく、これが本当の意味でネイティブとノンネイティブスピーカーの違いなのだと思います。

高校3年生に相当する7th Formになる頃には、パイロットになる夢を叶えるべく、勉学に励みます。途中、パワフルな父親が、突然「空を飛びたいか?」と言い、半年かけてセスナの免許を取ってきたのには驚きました。初ソロフライトに強制的に乗せられ、大興奮したのは良い思い出です。NZでの楽しい生活の中、高校卒業を目前に控えた私に、父親から悲しい事実が宣告されます。

父「お前に航空大学校を受験する資格は残念ながら無い。」

しばらく理解ができません。説明を求めると、体格に問題がありました。この時点で、私の身長は181cm、体重90kg超。身長は問題ないのですが、体重をあと20kgほど減量(かすかな記憶ですが、身長cm-100の×0.8kgが条件)する必要がありました。しかも半年で。一瞬で自分の夢は潰えました。父親は続けます。

父「今の成績は?」

私「首席が狙えるレベルです。」

父「その学力を人の役に立てるために最大限活かせる職業を考えなさい。」

子供ながらに考えました。そして出した答えが、「医師」だったのです。上述の通り、ネイティブスピーカーにはなれないので、海外での経験を日本の為に活かすため、帰国は決めていました。

そのことを父親に伝えると、父親が帰国子女枠で入試を実施している全国の医学部に願書受付を問い合わせてくれました。ここでも障壁が現れます。それは「年齢」です。1997年当時、受験資格の欄に年齢制限は記載されていませんでした。当然です。日本の医学部に飛び級制度はありませんでしたから。明記されるはずもなく、高校卒業資格を有する者は受験できるはずなのです。しかし、どこの大学も門前払い。前例がないのが理由とのこと。諦めずに手当たり次第に問い合わせます。そして、最終的に願書を受け付けてくれたのが、 佐賀医科大学(現佐賀大学)でした。対応してくださった方も、「受験資格はクリアしていますので、受けるだけ受けてみてください。」とのお返事。感謝です。

1997年11月末、晴れて私は卒業式を迎えます。当時、卒業式は表彰式(Prize Giving)も兼ねていました。その日まで自分が表彰を受けるのか、もしくは表彰されないのか、誰も知らない状況なのです。「首席になるかもしれない。」と、言ってはみたもののドキドキです。そして、首席は式の最後に呼ばれます。

「Dux in 1997 is………… Kohta Oyama !」

呼ばれました。Duxとは、日本でいう首席の事です。そして、歴代首席の名は講堂の盤面に遺されます。そこで当時の校長先生から祝辞が述べられたのですが、その時の言葉が今でも忘れられません。

校長先生「4年前に編入した当時のKohtaは、テストで0点を取り、宿題もしない心配な学生でした。当時、Kohtaのお父さんに学年主任が注意をしたら、逆に言葉の壁にぶつかった人間の立場を考えなさいと説教され、職員の間で外国人学生に対する深い議論ができたのを懐かしく思います。ところで、この首席という実績は、今は何の意味もありません。高校卒業時に成績が良かった。ただそれだけです。しかし、これからのKohtaの活躍次第でその意味はいくらでも変化し、効果を発揮するでしょう。今後のKohtaの活躍を期待しています。後輩の目標となってください。」

深すぎて、首席になった喜びを超越して感動し、勇気を貰いました。余韻に浸るのも束の間、12月初旬には帰国です。そして、帰国して2日後が入学試験でした。かなりのタイトスケジュールです。困ったもので、頭の中が英語から日本語に切り替わる十分な時間がありません。縦に書かれた文章も、漢字も・・・ヤバイ!!!

~試験当日~

一生懸命に問題を解きます。英訳は余裕でクリア。英文読解で困難が生じます。

問題:Thatが指す人物は誰ですか?4文字で書きなさい。

答え:赤ちゃん

簡単です。しかし、この赤ちゃんを4マスに記入しなければなりません。何が困難か?漢字が書けないのです。本当です。パニックです。苦肉の策で採った行動、それは最初の1マスに「アカ」とカタカナで2文字書く事でした。次のページは数学の問題。救われました。問題文の中に、「赤いおはじきが・・・・・云々」。さっきのページに戻って、「アカ」を「赤」に書き替えました。正直、受かった!と思った最初の瞬間でした(笑)。筆記試験の後は面接でした。面接官は学長、副学長、英語の教授だったと思います。3対1で30分以上の時間をかけて丁寧な面接でした。前半は日本語での質疑応答。移住や飛び級した経緯を説明しました(Vol. 1参照)。後半は全て英語でのディスカッション。

英語の教授:「あなたの知る、NZでの医療に関係する話を自由にしてください。」

当時、狂牛病が世界的に話題になっていました。その頃にテレビのニュースで話されていたことを記憶していましたので、知っていること(ニュースで聞いたこと)の全てを吐露しました。途中、NZは日本と同じ島国であることに話題が脱線し、NZには蛇がいない(当時はいないと言われていました)事や、狂犬病が無い事を話したのを覚えています。話が盛り上がったのもあり、この時点で内心、本当に受かるかもしれないと思ったのは事実です。

1998年春、17歳の「Kohta」は「耕太」として、入学を果たしました。

 

今回、親の都合で海外移住した子供が、そこでの生活を経て、どの様にして日本の医学部に入学したかについて執筆致しました。親として、子供の為の教育に対する心配は、拭い去ることのできないものです。でも大きな心配は要りません。子供は子供なりに真剣に悩み、葛藤しています。そして、親の期待に応えようと最大限の努力をしています。なので、親として、葛藤する子供に対し、要所要所で「将来の夢」を持たせ、支えることが重要だと思います。大切なのは、親が子供の夢を一緒に追いかける姿勢と覚悟だと思います。失敗しても、また前に進む覚悟。

 

次回(もし機会がありましたら)、この様な環境で育った子供が、医学部に入学し、医師になり、どの様にNZでの生活が活きていくかをお伝えしたいと思います。

末筆ではございますが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。そして、この様な寄稿の機会を与えてくださいました、月岡先生に感謝申し上げます。個別での連絡を希望される方は、遠慮なく下記アドレスまでどうぞ。返信に時間を要することがありますので、その際はご了承ください。

kohtaoyama@yahoo.co.jp

 

 

1997年に私の名前。

 

現在の私。

 

公立玉名中央病院 総合診療科部長

1980年5月31日生まれ

2004年4月:医師免許取得

2013年3月:学位(医学博士)取得