私は2001年に医学部を卒業して医師となり、2012年から渡米してきました。ちょうど日本で約12年、米国で約12年を医師として勤務したこととなり、今では米国での医師生活の方が長くなりつつあります。日本人医師が米国の病院で医師として勤務するには様々な高いハードルがありますが、それにも関わらず、年々米国で勤務することを希望してやってくる日本人医師の数は少しずつですが増加しつつあります。しかし、並大抵の努力ではその願いは叶わず、多くの日本人医師が諦めてしまいます。

諦めてしまう一番の理由は何でしょうか? 私が思うに、「周囲に臨床留学を成し遂げた方がいない」というのが最大の理由だと思います。私の母校である旭川医科大学は1973年(昭和48年)に創設されて、今まで50年間かけて約5000人の卒業生を輩出していますが、米国でレジデント・フェローを修了して、現在も米国で指導医をしている旭川医科大学の卒業生は私のみ(なんと5000分の1)。臨床留学を成し遂げた方になかなか出会えず、渡米まで大変苦労しました。現在では、Team Wadaなどを通じて留学情報はネットでも手に入るようになりましたが、留学を実現させるのに何より不可欠な「人との縁」はネットに決して落ちていません。

そこで、留学につながる縁を見つけたいと念願している医学生・医師のために、6月29日(土)に全国から留学経験がある9名の講師に大阪の岸和田徳洲会病院に集まっていただき、「史上最大の岸和田留学セミナー」を開催しました。岸和田徳洲会病院は1977年(昭和52年)に創立されて以後、救急医療を中心とした研修医教育の歴史が長い病院です。救命救急センターを有して災害拠点病院の指定も受けており、西日本で中心的な役割を果たしていると同時に、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨災害、能登半島地震などにも医療部隊の派遣を行っています。昔から「西の岸和田、東の湘鎌(湘南鎌倉総合病院)」とも称されており、私がかつて研修でお世話になった病院です。日本医学史上、市中病院にこれだけの講師数が集まった留学セミナーは例になく、文字通り、史上最大規模の留学セミナーとなりました。この企画が実現するまで、ずっと応援して支えてくれた岸和田徳洲会病院のスタッフのみなさま、そしてご多忙にも関わらず、講師としてセミナーに駆けつけていただいた押味貴之先生、藤吉朗先生、松岡信英先生、赤嶺陽子先生、小松輝也先生、瀬嵜智之先生、江夏怜先生、関口健二先生には心から御礼を申し上げます。

 

https://www.youtube.com/live/9JtFhVKPri4?si=xmfLdrfDSE-QtP3W

4月8日(月)に上記のTeam Wada動画を通じてセミナー募集告知をしたところ、告知してから1時間も経たないうちに、募集枠50名を超える100名以上の参加者の希望が日本全国から瞬時に寄せられて、募集枠は文字通り「瞬殺」で埋まってしまいました。臨床留学を何とかして成し遂げたいという思いを持った医学生・医師がそれだけ日本全国に増えているという証拠です。おかげさまで、そうしたグローバルに活躍したい医学生・医師が、北海道から九州まで一斉に岸和田に集まり、盛大かつ熱気に満ちたセミナーとなりました。Team Wada代表理事である北原大翔先生と、イリノイ大学シカゴ校で移植外科フェローを始められた三宅克典先生(元 湘南鎌倉総合病院 外科部長)からも以下のサプライズ動画メッセージをいただき、セミナー参加者からは大歓声が上がりました。

https://youtube.com/shorts/ZEOpc5Hssjc?si=gWyiiEW2iAAGU76E

https://www.youtube.com/watch?v=QAKlQvIB1Sw

 

今回の「史上最大の岸和田留学セミナー」で日本中から集まった熱気と希望にあふれる若い医学生・医師と出会い、自分がかつて医師になった当時に持っていた「患者さんに寄り添える良い医師になりたい」という志がぶれていないか、いろいろ考えさせられました。今から23年前の2001-2002年の研修医時代(医師1年目)、旭川厚生病院 放射線科に半年間勤務しました。その半年という短い間に、計12人のガン患者さんの死亡宣告をしました。まだ医師としての経験も浅く、感情が高まって言葉をなかなか発することができず、絞り出すようにしてやっと「お亡くなりになりました」と宣言したものでした。目の前にいる患者さんに真摯に向き合い、悩み、寄り添う覚悟ができるか否か。その当時は「最後に立ち会ったこの12人のお名前は絶対に忘れない」と心に誓ったはずですが、こうして24年経った今、ひとりの患者さんを抜かしてお名前がすぐに想起できず、慚愧の念に耐えません。ちなみにそのひとりとは、高校時代3年間一緒のクラスを過ごした同級生のお父様でした。

 

この研修医時代からの自分自身を振り返って痛感するのが、米国で勤務したとしても、必ずしも医師としての成長を保証するわけではないということです。医師であるためには、崇高な職業的倫理を明白な形で維持し、専門家としての科学的見地、技術的習熟を継続しなくてはいけません。そのためにも、医師は常に社会からの厳しい目にさらされた厚い信頼を得る必要があります。加えて、海外で生活するには、日本で生活する以上の辛苦や至難に出会います。この夏にこうした留学セミナーを通じて、海外に来たいという多くの若い医学生・医師と出会い、昔の自分を思い出して、本当に自分は医師として成長しているのかどうか、患者さんや家族とどこまで真剣に向き合っているのか。そして何より、自分自身が研修医の頃に持っていた志は今もまだ自分の中に残っているのか、と改めて自分を見つめ直すいい機会となりました。

 

2023年2月に父が亡くなった際に経験したエピソードは以前にTeam Wadaウェブサイトにエッセイを掲載しました(“Time is a gift”)。

https://teamwada.net/blog/area03/9067/

父は戦後の貧困のために中学校しか卒業していません。父が2023年2月に亡くなる前に、父の担当医は心温かくも私が掲載されている本や私の家族の写真を、父のベッド脇に飾ってくれていました。『たとえお父様がこれらの記事や写真を認識できずとも、お父様をケアする看護師がこうした記事や写真を見ることで、「この方は立派に子育てをされた方だ」とわかれば、それだけでも看護に違いが出るでしょう』とおっしゃってくれました。誰かのことを思わない道には、何の光も差し込むことはありません。結局、父の亡くなる瞬間には立ち会えませんでしたが、その担当医の温かい心遣いのおかげで、私たち家族が海外で離れて生活していても、日本にいる大事な方々に何らかの光を差し伸べることができるかもしれない、と思い至ることができて、私の心はとても和らぎました。私たちがアメリカで生活していることにもきっと何らかの与えられた意味がある、と信じることができるようになりました。「自分」という漢字は、「自ら」がある大きなものから「分けられた」一部であることを示しています。自分を支えてくれた方々へ感謝することで、人生に計り知れない深みが生まれて、自分の生を肯定する力が湧いてきます。

 

みなさんが、「いずれ海外で働きたい」と漠然でも憧れているのであれば、まず一歩踏みだすべきです。その素直な気持ちに理由を見つける必要はなく、恐れる必要もありません。意味は後からついてきます。尻込みしたり挫けたりして時間や機会を浪費することは、人生における最大の喪失のひとつです。人生にリハーサルはなく、すべて本番の一期一会であり、あらゆる機会は一度きりです。「海外で生活してみたいけど、自分には無理だ」と諦めてしまうのはつまらないです。年齢は問題ではありません。私が身にしみて感じることは、こどもはこどもらしく、10代は10代らしく、20代は20代らしく、30代は30代らしく、そして40代は40代らしく、いろんな素晴らしい経験ができるという可能性を信じろ、ということです。私はこの全ての年齢を通過してきて、現在50歳を目前として、その学びの機会をすでに経験してきました。だから、若手の挑戦をうらやましく思うことは全くありません。ただただ自分に向き合うだけです。「熱を失うな 熱いアラフィフなら 上等よ……!」。

 

最後に、臨床留学を目指すみなさんへ。『またまた史上最大の岸和田留学セミナー』を再度いつか実行したいと企んでいます(このタイトルにピンと来た方は「あぶない刑事」ファン)。何度も繰り返しますが、人との縁はネットには落ちていません。熱量をともにする仲間たちと将来につながる楽しいひと時を過ごせることを約束いたします。岸和田でいつかお会いしましょう。

 

ミシガン小児病院 小児脳神経科医

桑原功光