お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。

 

四つ子の魂百一まで。

言わずもがなこれは「三つ子の魂百まで」にそれぞれ1ずつ足したものです。(なんで足した?!)

ご存知の通り「人は三歳までに感化され形成された人格・性格がその後百歳まで変わることはない」という意味のことわざです。大人になったら人の性格は基本的に変わらないと揶揄したりするときにも使われることもあるようですが、本来は人の初期学習・教育の重要性を伝えるものであると思っています。

 

私が研修医になりたての頃、指導医の先生に最初に言われたことは、「研修医時代における医療・仕事への取り組み方は、その後の長い医師人生の骨格を形成し、自分がどのような医師になるか決定づけるとても重要な時期なので、とにかくがむしゃらに頑張りなさい」と言われたことを思い出します。そしてそれは真実であろうと今は思っています。言うなれば最初は純真無垢で何もわからないところからスタートするので、知識や技術の体得法を覚えていくのは基本として、仕事の時間配分や労働時間・そして努力の閾値に対して良い意味で無知であるため、がむしゃらにやることで自分自身の中にあるハードルの高さの設定をいとも簡単に上げることができ自身の限界容量を高めることができるのです。医師3−5年目の頃になると、仕事の要領がわかってきてるので自分の限界を越えないように上手く調節して、自分の知識・技量の向上に集中するというよりは、仕事を賢く捌くことに主眼を置いて「限界突破の努力」の勢いがなくなってしまう傾向が出てくるのです。これは誰しもが少なからず経験することでしょう。それもまた先の諺が真理であることを物語っています。件の指導医の先生の言葉には、そういった「全力疾走をしなくなる時期」が来る前に、自分の中の容量をできるだけ大きくし閾値をできるだけ高めておけという意味合いもあったのでしょう。しかし医師3年目までに限界まで自分の容量を大きくしてもたかが知れています。私が思うに重要なのは研修医などの初期教育期間が終わった後も自分自身でハードルを上げ成長し続けることができるかどうかだと思います。医師における初期学習・教育で一番重要なのは、自分の限界を知り、自分の限界を一歩超えていく術と勇気を培うことなのです。私は自分の心臓外科医としての今の技量に少しの自信は持っていますが、そんなことよりも努力を重ねて昨日の自分を超えていく術を知っていることにむしろ誇りを持っています。そしてそれを導いてくれた指導医の先生方に感謝しています。

 

今の私は自己研磨だけでなく、指導医として外科医の教育にも携わることを避けて通れない状態になっています。そしてそれは外科医として大変重要な役割であると感じ始めています。ただ自分の手術の実力を超えて教えることはできませんし、教え子がどんなに急成長したとしても、自分の指導下にある限り私の技量を超えていくのは患者さんの命を扱う手術という教育現場の特性上難しいことなのです。「外科医を育てる」と大層なことを言っても実際に技術伝授という意味においては、たかが「自分程度」の外科医にしか押し上げることができないのです。ゆえに私の教育の主眼は、己を律し反省改善を重ねて努力を続け自分自身で成長し続ける力をつけてもらうことです。

 

Comfortable zoneとも言われますが、自分の限界容量という箱の中にとどまり、それまで貯めた知識・経験という貯金を食い潰して医師人生を送るか、常にハードルを上げ続けて新しいものを享受し容量を大きくして成長を続け限界突破で医師人生を昇華させるか。どちらを選ぶかは個人の自由です。そして、簡単に二極化できるわけではないのでこれ以外にも無数の答えがあるでしょう。しかし、「自分で学び成長できる能力」はどのような人生を選択するにしてもその人生を豊かにすると思うのです。

 

三つ子の魂百まで。

この言葉の意味がわかる頃にはすでに三歳を超えていて、今更最初の3年をやり直せない。自分が何者になるのか、医師としてどこまで到達できるのかというのは、三歳までに形成された人格によりすでに決まっているのかどうか問題。数学界の難問P≠NP問題と同様未解決問題ですね。でもその答えがどうであれ、おそらく常に「努力して向上していく」という行程はどんな場合でも折り込み済みだと思うのです。だから努力しようと思った時点で何度でも生まれ変わってやり直せばいいだけの話です。四歳だから時すでに遅し、って思う必要はないのです。1を足して四つ子の魂百一まで。三十歳だから時すでに遅しではないのです。三十三つ子の魂百三十まで(多いな)。いつだって人は変われる、いつだって限界突破は可能なのです。

 

今回のラジオはとある人物ついて話しています。卑しい私や大野先生は、我々に配給されるはずだった天賦の才能を彼が根こそぎ持ってっちゃったんだって主張してますが。。。一体どういう初期教育を三歳までに受けたのか。連日限界突破で躍進する偉大な人物のお話です。ラジオをお聞きになる前に初期教育としてこちらのブログを参照して下さい。

 

 

書いたブログを推敲しつつ、ふと思ったんですけど、やっぱずっとごちゃごちゃ書かれると、うざいですよね?

正論で常にぶん殴られると疲れちゃうんですよね。「正論」なんて自分で言ってしまってますが、もしかしたら単なる私の暴論かもしれないですしね。私は思考をぐるぐる何度も巡らせて考え抜いて結論に達する癖があります。まあ考えを巡らせすぎて逡巡し結論に達しないことも多々あるのですが、めでたく結論まで達した場合、表に出る結論部分はいつも割とシンプルです。北原代表の長い話を聞いて、最後に「まあええんちゃう」って答える時も、その過程では膨大な思考を回しています。メインの教育現場である手術中も頭の中は言いたいことでフル回転ですが、実際はほぼ何もしゃべらない寡黙な人になっています。無言の圧がすごいと言われてしまったことはありますけど(反省改善中)。思考がぐるぐる絡まって処理しきれないので、たまにこうやってその思考過程をブログでアウトプットしているだけです。だから普段しゃべっているときはこんなに理屈っぽくもなくしつこくもないのです(と信じている)。いつもぐるぐる考えているので、結局吐き出していることは同じ内容だったりします。三つ子の諺の件も昔どこかで書いたような気がするのですよね。よく覚えてませんけど。同じことを言ってそうだから、今回のブログは却下かな、でもすでにたくさん書いてしまったしもったいないなあ、なんてぐるぐる考えて、結論としては「えええい!1足してしまえ!」ってなって、「四つ子の魂百一まで」ってなっただけなんですよね。限界突破だ何度でもやり直せだなんだって後付けで言いつつ、結局「親戚同士で集まるといつも同じ話を長々とするおじさん」になりたくないちょっとした抵抗をしているただのおじさんってことですよ。まあ要するにもっと気楽にいけばええんちゃう?ってことですよ。

 

結論:まあええんちゃう