お邪魔いたします。シカゴ大学太田です。

 

人類は常に進化する。人類全体を生命の一つの集合体と捉えると、個々の意志や見解に関わらず常に進化・発展の道を進むことは人類のDNAに刻まれた逃れられない習性であるのだろう。個別に一時代だけに注目すれば、失われた土地、技術、文化、言語などは確かに存在する。しかし、大局を見ればそれらは全て「淘汰」という言葉で洗浄され、然るべき次の波がそれらを包摂し結果として常に進化し続けるのだ。一方で、自身は進化発展を享受するだけで何ら進化に貢献していないと自認する人も多いのではないだろうか。しかしそのような人達も進化発展の産物の使用者として伝播伝達伝承に寄与している。また進化発展に貢献しようと積極的に努めたが結果として、「発明」が失敗に終わったとしても、それは淘汰されたものとして立派に次世代に教養を残し進化発展へ強く貢献しているのである。個人が独自の人生を好きなように送ることは、人類全体が一つの生命体として細胞分裂、突然変異、アポトーシスを繰り返し包括的に大きな波となり進化を遂げることに繋がるのである。

 

私が学生だった90年代はF1の全盛期(?)であり皆熱狂していた。アラン・プロストやアイルトン・セナといったトップレーサーが活躍し、マクラーレンホンダやフェラーリといったチームがF1界をリードししのぎを削っていた。特に私が好きだったのはピットインだ。ハイスピードで走っていたレースカーが規定速度まで減速しピットロードに入り、ピットインと共にクルーが一斉に作業に取り掛かりタイヤ交換や燃料補給をする。技術の粋を集めたマシン、ドライバー、そしてチームによるピット作業。コンマ1秒を争うレースにおいて、ピット作業は人間が直に技術やスピードを競いあう「アナログ」要素が強くレースを面白くするのだ。当時はピット作業の平均時間は10秒くらいだったと記憶している。マクラーレンチームがピット作業が速いことに定評があり、たまに驚異的な7秒台を叩き出し、解説の今宮さんが大盛り上がりしていたのを覚えている。おそらくマクラーレンのピットクルーは練習に練習を重ね個人としてチームとして作業技術を鍛え抜き、当時の最速記録を達成したのだろう。時は流れ私のF1熱も下がり自己研鑽に没頭していた2000年代にふと見たテレビで、ピット作業時間が4−5秒というのを目にした。90年代には絶対にありえない数字だ。時代は進むものなのだなあとぼんやり思っていた。今はどうなっているのだろうか? どうやら現在の最速記録は驚愕の1.8秒台のようだ。作業風景を見てみたが、作業工程が激減している、そして各作業の無駄な動作がなくなるよう道具の開発が進んでいた。ふと思うのである。90年代に7秒台を叩き出していたピットクルーと現在の1−2秒台で作業を終えてしまうピットクルー、優秀なのはどちらなのだろうか? もちろん速さと正確さを競う作業において、1−2秒台の方が良いに決まっている。速さが絶対正義の世界だ。ただクルー個人の努力とスキル、つまり人間のアナログ部分の優越はどうなのだろうかと思いを巡らせている。私にとっては専門外であり推測の域をでないのであるが、一つ思うのは、平均作業時間1−2秒台を提供する現在のクルーは、平均作業時間10秒であった時代に自らを研磨して7秒台まで行き着いたクルーに対し、自らの記録より劣ることを吊し上げて卑下するようなことがあってはならないのだ。作業時間の短縮は長年にわたる技術開発、蓄積された経験・知識、伝承されたスキル、個人の弛まぬ努力の結晶でなされたチーム力の向上によるところが多いからだ。同様に、90年代に7秒台を達成したエリートチームも、その先人を嘲笑したり、まして同時期の10秒台のライバルチームを見下し驕ることなどはなかったはずだと私は信じている。先人の努力の結晶を基盤とし、ライバルと協調し一つの生命体として大きな波を作るからこそ達成されたのが今の自分があることを理解していれば、記録の劣る先人やライバルを卑下することがいかに愚かなことであるかは明白である。むしろそのような人々に対し尊敬と感謝の念を自然と持てる者のみがさらにその先の至高の領域とやらに入っていけるのではないかと思ったりする。先人に学び、ライバルと切磋琢磨し、自身の反省改善を繰り返すことのできる環境に感謝することが大事である。それは共時的にチーム力の向上へと繋がっていくものなのである。

 

医療の世界でも同様のことが起こっている。私が携わっている心臓外科に限っても、過去20年における心臓外科業界の発展はめざましい。医療技術の発達がもたらす新しい機器、手術道具、研究成果の蓄積・革新による新薬の開発、医療理論の確立など心臓外科を取り巻くあらゆる要素が総合的に進化している。そして、関連する循環器内科、麻酔科、集中治療等の発展も心臓外科の成績の向上に直接的に寄与している。ただ心臓外科においては外科医の個人的スキル、つまり人間の「アナログ」部分が臨床成績に大きく影響を及ぼすという特性がある。術者のスキルの良し悪しが、20年に渡る医療技術の進歩をも帳消しにしてしまうほどに大きな比重をを占めているのである。手術自体が上手くいかなければ、あとはどんなに術後管理を頑張っても無駄に終わり、逆に手術さえ上手くいけば、あとは何もせずとも患者さんは自然と回復すると、誇張的に言われることがある。しかし、これはあながち比喩ではなく割と真理を突いていると私は思っている。それほどに術者の技量というのは大事だということだ。ゆえ心臓外科医は自身の手術スキルの向上に躍起になるのである。教科書・論文を読み古きから学ぶ、達人の手術を見て盗み真似てみる、机上での練習を重ね基本的動作を叩き込む、脳内で手術のシュミレーションを重ね疑似体験を重ねる、時には未熟な外科医を見て良くを学ぶ、自分で手術をしたなら反省改善向上を繰り返す。とにかく何にでも根こそぎかじりついて貪欲に成長を目指すのが心臓外科医の一般形なのだ。それほどの努力を基本とする心臓外科医集団は、修練のとある段階であまりにも真剣に取り組んでいるがゆえ、ライバルや先人を敵視・排除しようとしてしまう時期があるものである。己を律して厳しく無限に努力を重ねる努力家に多い傾向がある。自分より「緩い」トレーニング環境にいる人、自分よりスキルが劣る(と思い込んでいる)人が許せないのである。なぜこれほど断定的に語るのかというと恥ずかしながら私自身がかつてそうであり、また今まで同様に「拗らせちゃってる」外科医を何人も目の当たりにしてきたからである。今となってはそれはただ単に私にとって彼らにとって成長のために必要な時期であっただけであり、成長過程のひとつの表現形に過ぎないと認識している。実際、それくらい尖っていた方が実力もつくのではないかと思ったりもする。要は程度の差こそあれ誰でも通る思春期の反抗期みたいなものなのである。それでも私は拗らせていたことを回視し、反省と改善を経て次の段階へ進めているような気がするので、それはそれで軌道修正をできた自分をを褒めてあげたいとも思う。最近は今の私は心臓外科医としてどの段階にいるのだろうかとよく考察している。現状の把握は回視するよりも難しく自分自身を捉えきれていない・理解しきれていないと感じている。ただ少なくとも自分が一つの心臓外科生命体の一部であり、進化という名の大きな波の隅っこで微力ながら貢献している(と思い込んでいる)ことを理解しそれはそれで心地よいと感じている。

 

なんか知らんけど、それはそれはってウザいですね。長々と語っちゃってますしね、このおじさん。ではそろそろラジオいきますか。今回は、日本での一大イベントを終え帰米したのちずっとずっと反省だけしてる段階から抜け出せていないめんどくせーおじさんの物語です。それはそれでそれではおっさんずラジオvol.21「回視と転生 転」で無駄時間の極みをお楽しみください。

 

 

私の右手親指には大きなタコができている。毎日手術と机上のトレーニングに明け暮れていた頃にできた持針器ダコである。自身の努力に比例して大きくなるような気がして、ちょっとした勲章みたいなものである。数年前からフェローの教育に関わるようになってから、術中に持針器を持つ機会が極端に減った。それに伴い持針器ダコも小さくなってきた。フェローの教育をしつつも手術のクオリティを保ち手術成績も向上しているのでとりあえず良しとしている。私のタコがフェローの指のタコへと転生しているようで、それはそれで誇りに思ったりしている。ただ例えば私が心臓外科医として生きている今の時代が「10秒台」の時代であるとすると、驚愕の7秒台を常にめざして精進し続けたいと思っているし、また将来1−2秒台を叩き出す若者が出てきた時に一緒に祝福できるような自分でありたいと思っている。それはそれで良い外科医人生のはずだ。